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2009年11月 2日

21矢澤利弘

『きみがぼくを見つけた日』:死から始まる物語。命の連鎖と赤い糸。


ロベルト・シュヴェンケ監督の『きみがぼくを見つけた日』は自分の意思に関わらずタイムトラベルしてしまうという生まれながらの遺伝子を持った男という設定を使って、人は定められた運命を受け入れるしかないということを表現する。

脚本のブルース・ジョエル・ルービンは『デッドリー・フレンド』では、事故死したガールフレンドを少年がロボット回路を埋め込むことで蘇生させるさま、『ゴースト/ニューヨークの幻』では死んだ男の幽霊が恋人を守ろうとするさま、『マイ・ライフ』ではガンで余命わずかな男が、生まれてくる子どものためにビデオで自分の姿を残そうとするさまを描き、ほぼ一貫して死というものを見つめてきた。

これらの映画のキャラクターたちは、どんなに命を引き延ばそうとしても、最後には本来の死が待ち受けている。生と死の間をさまよう存在が死をやすらかに受け入れるためには、いわゆる「成仏」をするしかない。相米慎二監督の『東京上空いらっしゃいませ』も同様。彼らはわだかまりのある過去と和解し、何かを終わらせるしかないのである。

ストーリーは基本に忠実に三幕構成。第一幕はタイムトラベルせざるを得ない男と彼に惹かれた女が出会い、そして結婚するまで。第二幕は結婚生活と子どもを生むまでの苦悩。そして第三幕は定められた死をいかにして受け入れるか。

タイムトラベルを繰り返し、いつどこにいってしまってもおかしくない主人公ヘンリーは、妻クレアにとっては実態のないゴーストのような存在である。だが、ふたりを結ぶ赤い糸は決して切れることはない。カメラはこうした非日常的な設定を日常的でリアリティのあるものとして描ききる。

彼の遺伝子は娘に受け継がれる。だが、運命は変えられない。だからあらかじめ定められた死をどのように受け入れるか。それが死という究極的な終わりから始まるこの映画のテーマでもある。(了)


矢澤利弘

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