ボードリヤールなら・・・
メディア論も先日で7回目が終わり、折り返しを迎えましたがいかがでしょうか?
そのなかで幾たびか登場しながら、まだきちんと紹介しきれていない議論にジャン・ボードリヤールの議論があります。
その詳しくは次年度の「消費社会論」で紹介することにいたしますが、気にかかるのは現在の金融危機をボードリヤールなら、いかに分析したかということです。
ボードリヤールは、いまから20年も近くも前、ブラック・マンデーという株価大暴落とその後の急速な経済回復について、現実経済の蒸発を説いて話題を集めました。ボードリヤールによれば、すでに「商品取引高の総額は、今日では資本総額の四十五分の一にすぎず」、いわば「浮遊する貨幣の大群が軌道上に連なって、地球を包囲している」のであって、ブラックマンデーとは、このマネーの運動のなかで現実経済がある形態変化(カタストロフィ)を起こしたことのひとつの表現としてあったというのです(『透きとおった悪』紀伊国屋書店、40~52頁)。
そのボードリヤールならば、いまの金融危機について何と言ったのでしょう。単純に「現実の回帰と(消費社会の危機)」とは、説かなかったにちがいありません。皆がくりかえすそうした言説の流通こそを、消費社会の高度化と自己準拠化のますますの浸透の証として受けとめたのでしょうか。しかしそう理解するだけでは充分ではない、より根底的な社会的な形態変化がこの金融危機には含まれているような気もします。
いずれにしろボードリヤールに答えを聞くことはできません。ボードリヤールは去年(2007年)亡くなってしまったためです。生前、大きな出来事のたびに、ある意味では揶揄とも言える(「湾岸戦争は起こらなかった」、(9.11に関して)「実行したのは彼らだが、望んだのはわたしたちだ」等)、しかし根底的には真摯な社会分析の言葉をつぶやきにのせていました。そうすることで彼は、「善意」の者(すなわち「透明な悪」)ばかり増えすぎるこの社会に一人の他者であろうとしたのでしょう。
そうした他者を飲み込み、しかし時間は、この社会をより根底的な同一性のほうへと押し流していくようです。だとすればわたしたち自身こそが、たとえば金融危機を含む、この社会のあり方について、もう一度、真摯に考え直してみるしかありません。それができたときに唯一私たちは、その思考やあるいは「作品」を、もう一度、この社会に対する一つの他者として鍛え上げることができるのでしょう。そしてそれを通して私たちは思考や「作品」を初めてこの社会に対峙する、ひとつの「知」として機能させることができるはずなのです。
